鞍馬流 習成館
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創立1879年勝海舟命名剣道場
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習成館について

歴代館長

初代館長 柴田衛守

初代館長 柴田衛守

 柴田衛守は嘉永2年(1849年)10月21日、四ツ谷仲殿町に生まれる。父政雄は、幕府の槍術指南役で本心鏡知流槍術師範。八歳で鞍馬流金子助三郎に入門、その息熊一郎に就いて修業する。18歳で、鞍馬流免許皆伝。講武所剣術教授方間宮鉄次郎に小野派一刀流(忠也派一刀流)を学ぶ。19歳で明治維新を迎え、明治10年の西南戦争では陸軍看護長として従軍している。明治12年12月四谷警察署の撃剣世話掛となり、同年、四谷箪笥町に道場を開く。習成館の名は、勝海舟の命名で、海舟直筆の横額が道場の奥に掲げてあったという。四谷左門町に習成館を興したのは、明治19年。柴田衛守は、大正4年大日本武徳会剣道範士、警視庁剣道主席師範(中山博道範士の前の主席師範)をつとめた。鞍馬流第14代金子助三郎より鞍馬流第15代宗家を継承。大正14年9月10日、76歳で没。

二代目館長 柴田勧

二代目館長 柴田勧

 柴田勧は明治20年(1887年)6月1日、鞍馬流第15代宗家柴田衛守の次男として四谷に生まれる。早稲田大学に進学したが、長兄、心一郎の死去に伴い大学を中退、習成館道場の経営を引き継いだ。それとともに父衛守の推挙もあって警視庁の師範に就任。定年を待たずに警視庁師範を辞め、その後は道場経営のかたわら衆議院、貴族院、東京市交通局、海城中学校の剣道師範を務めた。剣道の早慶戦では第2回から亡くなるまで橋本統陽先生とともに十数回連続で請け負ったほか、他の大会や大学対抗戦においても審判の声が頻繁にかかったという。「中山博道範士の目は金、私は銀というところだ。」と語っていたという。天覧試合(昭和9年5月)で中山範士が誤審したと伝えられたが、柴田勧は、「竹刀のヒラが胴に当ったのでは斬れないではないか。」と、金の目の正しさを支持していたという。5尺2寸(約158cm)と小柄であったが、技は多彩、中でも鞍馬流のエキスが注がれた捲き技などは、手首の柔らかさと相まって威力があったという。昭和17年7月3日、56歳で没。

三代目館長 柴田鐵雄

三代目館長 柴田鐵雄

 柴田鐵雄は大正13年(1924年)4月26日、鞍馬流第16代宗家柴田勧の次男として信濃町に生まれる。昭和17年海城中学校を卒業した年の7月父勧が亡くなる。父亡き後、衆議院貴族院の剣道助手を務め、翌年志望していた一橋大学を諦め、東京体育専門学校剣道科(現筑波大学)に入学する。三橋秀三範士に就いて剣道の専門家としての道を志す。しかし、戦況悪化により稽古する時間はあまりなかったという。そして、昭和20年の戦災で道場、古文書、伝書、武具すべてを焼失してしまった。戦後昭和22年春、東京体育専門学校を卒業、神奈川県立川崎工業高校の保健体育教諭として着任する。以来30年間、当初は剣道禁止で野球で甲子園を目指す。その後は県内の高校で教頭、校長を歴任する。定年を迎えた年、昭和60年妻朋子が急逝、この頃から道場再建を本気で考えるようになる。それから3年、平成元年12月習成館道場が再興される。平成10年11月の八段審査会で、74歳の高齢で8段に合格。神奈川県学校剣道連盟会長、神奈川県剣道連盟審議員、日本古武道協会常任理事、日本古武道振興会常任理事、上智大学体育会剣道部師範などを務める。鞍馬流第16代宗家柴田勧より鞍馬流第17代宗家を継承。平成16年12月13日、80歳で没。

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